富山県高岡市 × 文化ツーリズム

万葉集、加賀前田家、北前船、3つのキーワードをなぞり旅する歴史都市・高岡

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日本海に面する富山県、その北西部に位置する高岡市は、富山湾を望み、背後には穀倉地帯が広がる自然豊かな地域。2015年に開業した北陸新幹線の新高岡駅を下車すると、砺波(となみ)平野の玄関口らしく、広大で豊かな景色が広がる歴史文化に彩られた場所でもあります。 古くは約1300年前、万葉歌人、大伴家持(おおとものやかもち)の詩情をかきたてた雄大な自然は、時を経てもなお、多くの人々を魅了しています。一方で、加賀前田家2代当主前田利長が築き、3代利常によって、町民のまち、商人のまちとして発展していったこの町の歴史や文化を知ると、「しなやかさ」という言葉が浮かびます。生き抜くための強さを感じることができるのです。そんな高岡の歴史・文化を、「万葉集」「加賀前田家ゆかりの町民文化」「北前船」という3つのキーワードで一緒に紐解いてみましょう。

万葉歌人が思わずつぶやいた繊細でダイナミックな風景

高岡市内には、大伴家持像や万葉歌碑が数多く設置されており、市街地を走る路面電車「万葉線」や「万葉小学校」、和菓子銘菓「とこなつ」、高岡の代表的な秋のイベント「高岡万葉まつり」など、「万葉」にちなんだ名称やイベントが人々の日常に溶け込んでいます。改元時、「令和」の出典としても脚光を浴びた『万葉集』の舞台のひとつが、ここ高岡です。

『万葉集』は、奈良時代の8世紀頃、約130年間に天皇や皇族、貴族、官人、そして名もない庶民が詠んだとされる歌、約4500首を収めた現存する日本最古の歌集(全20巻)です。恋や親愛の歌、亡くなった人を悼む歌、自然の素晴らしさや神の偉大さ伝える歌など、その時の気持ち、場面を切り取った詠み人のつぶやき、想いを歌に残したものは、古代のTwitterとも言われており、現代に生きる私たちも大いに共感できる想いが込められています。

この膨大な数の歌をまとめ上げた編纂者は大伴家持(718~785年)というのが通説。自身が詠んだ473首をこの歌集に収め、このうち223首は越中国(現在の富山県と石川県の一部)の国守として、高岡の地に滞在した約5年間に詠んだもの。高岡の豊かな自然風土が万葉歌人としての家持の詩情を大いに刺激し、歌人としての才能が花開いたと言われています。 家持は746年、奈良の都、平城京から遠く離れた越中国に国守として赴任してきました。奈良の都とは、気候も、目にする風景や食も異なる越中国は、家持にとってまるで“外国”にでも来たような感覚だったのかもしれません。 

 「玉くしげ 二上山に 鳴く鳥の 声の恋しき 時は気にけり」 

ホトトギスが渡ってくる初夏の頃に二上山(ふたがみやま)と同名の山のある奈良の都に思いを馳せて恋しさをつぶやいた歌。

二上山(標高274m)からは、広く高岡市街を見渡し、富山湾の向こうに立山連峰、氷見方面には能登半島を眺望することができます。山並みに沿い東西を走る「二上山万葉ライン」は、人気のドライブコース(冬季閉鎖)で、一歩足を踏み入れると、遊歩道や散策コースが整備されています。周辺には大伴家持像、万葉植物園、平和の鐘などのスポットがあるほか、山の南側から往復1.5時間のショートトレッキングで山頂を目指すこともできます。家持が愛した四季の展望とともに、万葉歌の世界に浸ってみてはいかがでしょう。 

「立山に 降りおける雪を 常夏に 見れども飽かず 神からなし」

 家持が赴任した越中国庁近くにあった官舎(家持の住まい)で詠まれた歌と言われています。夏であっても白い雪をいただく立山連峰の姿に対する素直な感動をうたい、「きっと神の山に違いない」と、神を見いだし感嘆したものです。 万葉の時代から港町として栄え、近世以降は北前船の寄港地として交易の拠点であった伏木(ふしき)。現在では国際ターミナルを備える日本海の重要港湾の一角に位置付けられています。伏木の中心地にある勝興寺(1471年創建)は、家持が赴任した越中国庁が置かれていた場所とされています。 

岩崎ノ鼻灯台付近からの眺め。伏木万葉ふ頭と雪をいただく立山連峰

勝興寺は、江戸時代に越中における浄土真宗の有力寺院であり、加賀前田家の庇護のもと、本願寺および公家との関係を深め、近世に至るまで権勢を振るいました。 境内に立つ建造物のうち12棟が国指定の文化財であり、本堂(1795年建立)は京都の西本願寺阿弥陀堂を規範として建てられたもの。2022年12月には、本堂、大広間及び式台の2棟が、国宝に指定されました。 

 「馬並めて いざうち行かな 渋谿の 清き磯廻に 寄する波見に」 

馬に乗って渋谿(しぶたに)、現在の雨晴(あまはらし)海岸の清らかな波を見に行きましょうとの誘いの歌です。雨晴海岸から見る藍色の富山湾越しの立山連峰を望む風景は、今や富山湾を代表する景色として名高いものとなっていますが、その神々しい景色は1300年前の奈良時代も変わりなかったようです。伏木にある家持の住まいから雨晴海岸までは約3Km。奈良の都で育った家持は、岩に波が寄せるこの雨晴海岸の景色をこよなく愛し、多くの歌を詠みました。四季折々、とりわけ冬の晴れた日の朝、澄んだ空気を感じつつ眺める3000m級の立山連峰の姿には圧倒されたことでしょう。 

家持が目にした風景や詠んだ歌を偲ばせるスポットには、万葉歌碑が建てられています。歌碑めぐりをしつつ万葉の風を感じ、高岡周辺の自然風景を楽しむのもおすすめです。

城下町から商工の町へ、加賀前田家の挑戦

大伴家持の時代から時は移り、豊臣から徳川の時代に入る頃の1609年、加賀前田家の2代目当主、前田利長(1562~1614年)が、高岡城を築きます。 

高岡古城公園に立つ前田利長像

利長は、築城と同時に資材の集積と調達を行う拠点を設けたり、腕利きの鋳物職人を招いて手厚く保護したりと、城下町の発展に尽力しました。

ところが、築城からわずか5年で利長はこの世を去り、その翌年に幕府が下した一国一城令により、加賀藩は金沢城を残して高岡城を廃城としたのです。高岡に暮らす武士ら家臣は金沢へと帰り、町民の転出も相次ぎ、城を失い城下町の存在意義を失った高岡は、町の存続すら危ぶまれました。

そこで、3代当主の前田利常(1593~1658年)は、利長の遺志を継ぎ、城下町から商工の町へと転換させるため、大胆な政策を次々に打ち出しました。例えば、米場や綿場を設けたり、麻布の集散地としたり、魚問屋、塩問屋の創設を認めたり。廃城となった城跡内に加賀前田藩の米蔵や塩蔵を建てて平和的に利用したことは、戦に備えて堅固な高岡城の機能を維持しつつ、幕府の干渉を受けないようにしたものとも言われています。 

その甲斐あって、高岡城の水濠は400年以上経った今も当時のままの状態で保存されています。富山県で唯一「日本の百名城」にも選定され、2015年には国史跡に指定されました。また、「高岡古城公園」として一般に開放され、市民の憩いの場所となっています。

高岡駅から徒歩約15分の同公園は、さくらの名所100選にも認定されている自然公園。四季折々の彩りを感じながら自由に散策を楽しむことができます。石垣には刻印が残されており、串団子やひょうたんの形など、記号や図形など組み合わせも含めて約128種類もあるとか。ただ、刻印の意味はよく分からないのだそう。

町民文化の面影残る、重要伝統的建造物群保存地区「金屋町」と「山町筋」

高岡の市街地には、職人や商人が暮らした往時の面影を伝える町並みが今も大切に残されています。そのひとつ「金屋町」は千本格子の家並みが美しい高岡鋳物発祥の地です。 

「山町筋」は、高岡開町以来の商人の町で、防火を強く意識した土蔵造りの家々が立ち並びます。 いずれも、近年はショップやカフェ、ギャラリー、体験工房などが点在し、まち歩きが楽しいエリアです。 

歴史と文化を感じる特色ある町並み

高岡の発展に重要な役割を果たし、町民文化を牽引した鋳物師

高岡の町の発展を語るうえで欠かすことができないのが鋳物産業です。現在、高岡銅器は国内シェア9割以上を誇り、全国各地に建つ銅像や梵鐘の多くが高岡で作られています。

この発展の起源は、2代当主の利長が高岡城を築いた時、鋳物師(いもじ)を招いて土地を与えて住まわせたことに遡ります。良質な砂と大量の水が利用できた千保川(せんぼがわ)左岸の金屋町で、当初は鍋や釜などの生活用具や、農具などの鉄器具を作っていましたが、その後、釣鐘や灯籠といった銅器の鋳造を開始。18世紀後半ごろには香炉や花瓶、火鉢や仏具など、装飾性が高く文化的なものへとその優れた技を広げ、銅器製造を盛んに行うようになりました。

こうした高度な鋳造技術は、高岡市のシンボル的存在であり日本三大仏のひとつ、1907年から30年もの歳月をかけて完成した高岡大仏にも活かされています。 

高岡の象徴ともいえる高岡大仏、顔立ちが凛々しいと評判です

高岡随一の観光名所でもある、国宝・瑞龍寺(ずいりゅうじ)は、壮大な伽藍建築で知られます。瑞龍寺は、前田利長の菩提を弔い、異母弟の前田利常が約20年もの歳月をかけて建立しました。仏殿の屋根は金沢城と同じく全国でも珍しい鉛葺き。一説には、戦の時には鉛を溶かして鉄砲の玉にするためだと言われています。このようなところにも、加賀百万石の藩主としての厳しい目としなやかに生き抜く力を垣間見るようです。 

国宝に指定されている高岡山瑞龍寺
仏殿のさらに奥にある総檜造りの法堂(はっとう)は境内で最大の建築物
高さ18mの山門。ここから見る美しい仏殿は必見

さらに銅器は、北前船に乗って各地へとその販路を拡大

大阪~蝦夷地(北海道)を結ぶ日本海開運である北前船の交易ルートは、江戸時代中期(18世紀中頃)には確立されていました。その寄港地のひとつが、富山湾に注ぐ小矢部川と庄川の河口に位置する伏木港でした。高岡で製造されたニシン釜や塩釜などの鉄製品、香炉、花瓶、仏具などの銅製品は、米などとともに、「動く総合商社」とも呼ばれた北前船の海運ルートに乗って、日本各地へと販路を拡大したのです。 

朝日が照らす女岩と気嵐立つ雨晴海岸
雨晴海岸から見る絶景、立山連峰と氷見線のローカル列車

奈良時代、大伴家持が赴任した越中国府がここ伏木に構えられたように、伏木は時代ごとに重要な役割を果たしてきました。江戸時代に北前船が入港し始めたころには、伏木はすでに物流の一大拠点として、加賀藩の各種物資の集散地としての役割を担っていました。北前船による交易は、この町に莫大な富をもたらし、財をなした豪商はその富を町に還元することで、地元経済を支え、伏木の近代化に貢献しました。 

豪商の町への富の還元は、高岡御車山(たかおかみくるまやま)に見ることができます。財を成した豪商たちは町ごとに山車の絢爛たる装飾を競い合い、7基の御車山には、彫金、漆工、染織など高岡の統工芸技術の粋を集めた豪華な装飾が施されています。 

毎年5月1日に行われる高岡御車山祭は、「山・鉾・屋台行事」のひとつとして、ユネスコ無形文化遺産に登録されています。 高岡御車山祭の御車山を通年で観覧できるのが「高岡御車山会館」。祭の高揚感をリアルに感じることができるほか、ものづくりのまち高岡の工芸技術や地域の文化について触れることができます。 

ボランティアガイドと巡れば、一歩踏み込んだ文化と歴史探訪が楽しめる

高岡の歴史を巡る物語、いかがだったでしょうか?これらの物語は、文化庁が地域の文化・伝統を語る「日本遺産」ストーリーに認定されており、「歴史都市・高岡」の魅力を分かりやすく伝えています。 

これらのストーリーを巡る旅は、地元のボランティアガイドグループを利用するのがおすすめ。名所や観光スポット、町並み保存地区の見どころだけでなく、あまり知られていない逸話や歴史などの解説を聞きながら案内してもらうことで、歴史都市高岡の魅力をより深く知り、そして理解することができます。1時間からガイド依頼できるので、旅のプランにボランティアガイドと歩く時間を部分的にでも組み合わせると、旅の満足度がぐんと上がるはず。高岡歴史散策の心強いおともとして、ぜひ検討してみてはいかがでしょう。 

取材協力:高岡市

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