特別寄稿 丁野 朗 氏

近代の大土木遺産・琵琶湖疏水 ―文化資源をどう活かすか

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自分の育った地域の歴史、文化を改めて認識し、自分たちの誇りとして次世代へ伝え、その場所に住む人だけでなく国内外問わず人々を旅に誘うことを目的とした、文化庁の「日本遺産」。 2023年10月末時点で全国104の地域ストーリーが認定されていますが、前回「御食国(みけつくに)」若狭、福井県小浜(おばま)市の取り組みに続き、今回は琵琶湖の水を滋賀から京都へ供給し、舟運とともに日本初の発電事業を創出した水路「京都琵琶湖疏水」の例をもとに、地域における文化資源の活かし方について考えます。 文化観光の分野で日本遺産の設立や日本文化の継承と発展に長年携わり、公益社団法人日本観光振興協会総合研究所の顧問でもある丁野 朗(ちょうの あきら)氏による連載寄稿・第6弾。

近代という時代を象徴する遺産は各地に数多くあるが、これほどの巨大な土木遺産が当時のまま残っている例は誠に珍しい。国指定史跡の京都琵琶湖疏水である。

この疏水のある京都東山エリアには、著名な瑞龍山南禅寺があり、その奥には巨大な赤煉瓦構造物がある。水路閣である。琵琶湖疏水の分線として明治21年(1888年)に完成した水路橋であり、全長93m(幅4m、高さ9m)、赤煉瓦・花崗岩造りの巨大構築物である。

琵琶湖疏水「水路閣」

南禅寺を訪ねる人々も、その奥にある水路閣までは意外と足を延ばす人は少ない。古都・京都の風情が漂うこの奥まった場所は、亀山法皇の遺骨が納められている南禅院の聖域である。その目前に近代を象徴する巨大な赤煉瓦構築物が建設された。当時は、その建設に根強い反対もあったという。19世紀末のパリで、建設中のエッフェル塔が、多くの画家・建築家・作家たちの批判の的になったように、この水路閣も多くの反対があったことは想像に難くない。

しかし、この水路閣を含む琵琶湖疏水こそが、近代京都の再生にとって大きな役割を果たした。明治2年の事実上の東京奠都により、人口が減少し、産業も衰退していた京都が、近代の新しい都市として蘇ったのは、まさに琵琶湖疏水の力によるものである。今や世界中から注目される、日本を代表する国際観光都市 京都だが、この疏水がなければ、今日のような繁栄はなかった。本稿は、その琵琶湖疏水の物語である。

 

「奇想」が生んだ世紀の大土木工事

琵琶湖疏水の水路閣に行くには、京都市営地下鉄東西線の蹴上(けあげ)駅が近い。その蹴上駅を地上にでると、南禅寺に向かう赤煉瓦造の小さなトンネル(ねじりまんぽ)がある。

ねじりまんぽ

トンネル入り口の両側には、「雄観奇想」「陽気発處」の二つの扁額がかかる。当時の京都府知事北垣国道の揮毫である。明治23年(1890年)に完成した琵琶湖疏水を記念して書かれた篆書(てんしょ)体の文字である。

琵琶湖の水を都に引く構想は、平清盛の時代にまで遡る「奇想」であった。延長2,436mの琵琶湖疏水第1トンネルの掘削工事は誠に困難を極めた。工事に先立ち2本の竪坑を掘った。これも工期短縮を図る「奇想」であった。工事を指揮したのは工部大学校(後の東京大学)を卒業したばかりの若手技師・田邉朔郎。まさに日本最初の竪坑であり、日本人だけの手による世紀の大土木工事である。

明治2年の東京奠都により、京都の産業は急激に衰退、人口は3分の1も減少した。このため政府は産業勧業金や洛中の地子免除、産業基立金の下賜を決定し、京都の産業復興を図った。そのシンボルプロジェクトの一つが「希望の水路」琵琶湖疏水の大工事であった。

この事業は1930年代世界大恐慌時のテネシーバレー開発を想起させる。疏水工事中、田邉らはアメリカコロラド州アスペンの銀山で視察した水力発電所を視察した。そこで得た知見から、蹴上と岡崎間の落差を活かして、日本初の営業用発電所(蹴上発電所)を構想し、当時の北垣国道知事を説得して水力発電所の建設に着手した。その電力で、京都・伏見間に日本初の電気鉄道(路面電車)を走らせ、紡績、伸銅、機械、タバコ等の新しい産業の振興を図ったのである。「近代工業都市」京都の誕生である。琵琶湖疏水は、まさに「陽気発する處」となった。

琵琶湖疏水の水は、舟運、発電などの産業用の他に、数多くの庭園や京都御所、東本願寺などの防火用水や生活用水など、京都市民の暮らしの根幹を支えた。今日の豊かな京都の食文化も、琵琶湖疏水のおかげである。無鄰菴や平安神宮神苑などの公開されている庭園のほか、南禅寺界隈に多数建設された別荘群にも水を供給し、今日の京都の観光の基盤にもなっている。

67年ぶりに復活した琵琶湖疏水船

明治23年に竣工した琵琶湖疏水は、伏見区堀詰町までの全長20kmを物資や人を載せた三十石船が活躍した。しかし、京津間に電車が開設され、かつ陸上交通が盛んになるにつれて舟運は衰退し、ついに昭和26年(1951年)、疏水舟運は終わりを告げた。

近年、新たな観光交流の時代を迎え、その琵琶湖疏水に再び船を浮かばせたいという強い思いも膨らんでいた。その夢は、ついに2018年に実現することとなった。明治維新150年を記念する新たな観光振興策として、大津から蹴上までを遊覧する観光船(疏水通船)が再び就航したのである。

大津と蹴上を結ぶ疏水船

琵琶湖疏水は大津市三保ケ埼の琵琶湖取水口(大津閘門)から、疏水第一トンネルを抜けて山科盆地に出る。さらに盆地の北辺に沿って諸羽、第2、第3のトンネルを抜けて蹴上へ。その先、船はインクライン(傾斜鉄道)の台座に載せられたまま南禅寺船溜まりまで送られる。

美保ケ埼は、京阪電鉄の三井寺駅から近いが、アクセスはいま一つであったので、令和5年度の運行から、乗船口が大津港に変更になった。大津閘門の開閉が電動化されたことによるが、これにより大津港から大津閘門を潜り抜けられるという新たな楽しみも増えた。

復活した疏水通船は、一部区間のトンネル工事の影響で、かつての三十石船サイズの船は運航ができなくなったが、新たに14人乗りの小型船での運航が行われている。

筆者は幸運にも、その疏水船に2度試乗させて頂いた。大津閘門から乗船し50分かけて蹴上(御所ポンプ室)までの水路は誠に興味深かった。最初に目に飛び込んでくるのは、全長2,436mの長柄山トンネルであり、この入り口(東口洞門)に掛かるのは伊藤博文の揮毫の扁額「気象萬千」(様々に変化する風光はすばらしい)である。こうした扁額は、驚くことに誰も目にすることがないトンネルの中にも掲げられている。第一トンネルを入ってしばらく進むと、北垣国道揮毫による「寶祚無窮」(皇位は永遠である)の扁額がある。誠に、この工事にかけた想いが伝わってくる。第一トンネルの中ほどには、工事の最大の難関でもあった第一竪坑があり、上部からは水が落ちている。

第一トンネル東口洞門に掛かる伊藤博文の揮毫の扁額「気象萬千」
トンネル内にある北垣国道揮毫による「寶祚無窮」

第一トンネルの出口に近づくと、一条の光が差し込んでくるが、この光景は、まさに「希望の水路」という言葉を思い浮かべる。トンネルの出口(西口洞門)を抜けると、四宮・山科にでる。私事だが、学生時代はこの疏水べりに下宿していた。春には桜が咲き誇る名所でもある。山科では哲学者、西田天香が創始した一燈園もある。この後、船は第二トンネル、第三トンネルを抜けて、終点の蹴上・御所ポンプ室に到着する。まさに明治の大土木工事を肌で感じることができる興味深いクルーズであった。

第一トンネル出口(西口洞門)風景

日本遺産に認定された琵琶湖疏水

琵琶湖疏水は、令和2年(2020年)度の文化庁日本遺産に認定された。「京都と大津をつなぐ希望の水路 琵琶湖疏水」である。事業を最初に手掛けたのが、疏水を管理・運営する京都市上下水道局であった点も大きな特色であった。日本遺産認定にむけて、京都市と大津市の2市の観光部局のほかに、京阪ホールディングスやJR西日本、JR東海などの鉄道会社、両市の商工会議所などが加わって「琵琶湖疏水沿線魅力創造協議会」が設立、疏水の活用を推進する母体となっている。

協議会では、今後の方針として、京都から取水口の大津に至る琵琶湖疏水関連の拠点施設などを連携させ、これらを一体的にフィールドミュージアムとして展開すること、疏水沿線の山科区や大津市、伏見区など、京都観光の新しい魅力を創造し、集中する京都観光の分散化を図ること、なども挙げられている。

疏水船の活用には、これらを支える疏水の構造物の保全措置が不可欠だが、疏水は長年の痛みもひどく、その補修も大きな課題である。既に観光拠点整備事業(文化資源活用事業費補助金)などを活用して、大津閘門の改修、水路・石積み等の調査と補修などの他、さらなる公開活用のための第一竪坑や旧御所ポンプ水道室などの美装化などの事業が着手されている。

美装化が終わった旧御所ポンプ室と疏水船乗降拠点

疏水船の乗船口にもなっている蹴上の旧御所水道ポンプ室は、京都御所を火災から守るための水道施設で、明治45年(1912年)、宮内省匠寮の設計、迎賓館赤坂離宮を手掛けた片山東熊らが担当した。煉瓦造と石積みの隈を持つ優美な建物で、国の登録有形文化財にも登録されており、建物のさらなる活用が期待されている。

悲願の蹴上インクラインの再現

琵琶湖疏水の保全・活用にとって長い間の悲願は、何といってもかつての蹴上インクラインの復元であろう。大津から来る船をそのまま台車に載せて、南禅寺船溜まりまで上下させた傾斜鉄道である。その延長は640m、敷地幅22m、勾配15分の1ある。

蹴上インクラインと南禅寺船溜まり

 南禅寺船溜まりの正面には、船を上下させる巻き上げ機(ウインチ)を格納した「ドラム工場」があり、昭和12年(1937年)に改築されたが、現在も当時のまま残されている。その動力はもちろん蹴上発電所の電力であり、蹴上船溜まりと南禅寺船溜まりの間を、片道約15分で運転していたという。

インクラインのロープを巻き上げる「ドラム工場」

このエリアは国史跡に指定されており、春の桜並木の季節などには多くの人々が訪れる観光スポットにもなっている。このインクラインの復元は、琵琶湖疏水エリアの活用にとっては極めて重要な位置づけをもつが、地盤調査など、その第一歩がすでに着手されている。

筆者が琵琶湖疏水と深く関わるようになったのは、経済産業省の「近代化産業遺産群33(平成19年)」の認定以来である。この産業ストーリーの中で、琵琶湖疏水は第24番目のストーリー「京都における産業の近代化の歩みを物語る琵琶湖疏水などの近代化産業遺産群」として描かれている。「京の都を再興せよ」という副題がつけられているが、33の産業物語の中でもひときわ異彩を放っている。

地域の礎を築いた産業の物語は、既に「石見銀山遺跡とその文化的景観(2007年世界遺産登録)、「富岡製糸場と絹産業遺産群」(同2014年)、「明治日本の産業革命遺産」(同2015年)など、次々と世界遺産登録されている。また、2015年に創設された文化庁の日本遺産にも近世末から近代にかけての多くの産業の物語が認定されている。

問題は、これら世界遺産や日本遺産の活用である。琵琶湖疏水は、疏水通船の復活、疏水周辺環境の整備・美化、インクラインの復元等、多くの人々が親しめる環境整備や観光プログラムに極めて熱心である。

疎水を軸にしたフィールドミュージアム構想も今後は楽しみである。その拠点になるのが疏水記念館であろう。記念館は近年改装し、入り口に大きなガイダンスセンターを設置、内部は疏水工事の一大プロジェクトの全貌を知ることができる精密な測量図面や貴重な資料が展示されている。いわば日本遺産センター的役割を担う施設である。

琵琶湖疏水のフィールドミュージアムの拠点となる「疏水記念館」

事業の推進母体である京都市上下水道局では、令和2年の日本遺産認定と同時に、文化観光推進法の拠点計画を申請し、同年認定された。この拠点計画では、琵琶湖疏水記念館をフィールドミュージアムの拠点として位置付けるとともに、周辺観光の拠点化も目指し、日本遺産事業との差別化とともに相乗効果を図ることを狙いとしている。エリア全体の文化観光の促進にむけて、記念館自体の視認性を高め、親しみやすい環境に向けた改修を通して賑わい空間を創出することが目標とされている。またICTも活用した観光案内機能の強化を行い、岡崎・蹴上の両エリアの周遊性向上も目指している。

事業実施にむけた取組みを「琵琶湖疏水リバイバルプラン」としてとりまとめ、琵琶湖疏水の魅力を国内外に広く発信していくことがこれからの大きな課題である。

明治の一大プロジェクトを肌で感じることのできる琵琶湖疏水の周辺は、まさに近代京都を生み出したアルカディア(理想郷)であり、これからの京都の新しい文化観光拠点づくりが、誠に楽しみである。

ライター
丁野 朗

ちょうの あきら

観光未来プランナー、公益社団法人日本観光振興協会総合研究所顧問、元東洋大学大学院国際観光学部客員教授、文化庁日本遺産審査評価委員

 

マーケティング・環境政策のシンクタンクを経て、1989年(財)余暇開発センター移籍。「ハッピーマンデー制度」や「いい夫婦の日」の提唱、産業観光などの地域活性化事業に携わる。2002年(財)日本生産性本部、2008年(公社)日本観光振興協会常務理事総合研究所長を経て、2017年よりANA総合研究所シニアアドバイザー、2020年より日本観光振興協会総合研究所顧問に就任。 観光庁、経済産業省、スポーツ庁、文化庁などの関係省庁委員や栗原市、呉市(顧問)、横須賀市、小田原市、舞鶴市、越谷市、益田市など各地の観光アドバイザーなどを務める。他に日本商工会議所観光専門委員会学識委員、全国産業観光推進協議会副会長、全国近代化遺産活用連絡協議会顧問なども務める。

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